「目上の人には『ご苦労さまです』の代わりに『お疲れさまです』を使う。こうしたことを知らない若者は意外に多い」
先日、某経済新聞に載っていた新入社員の言葉づかいについての記事の一文ですが、
お疲れ様も目上の人間が使う言葉だ、ばかもん。
目糞鼻糞というか人のふり見てわがふり直せというか。他人に文句つける前に自分がきちんとした日本語使えと。
お疲れ様にしろ御苦労さまにしろ労いの言葉なので本来目上の人間に対して使うべき言葉ではありません。じゃあ目下の人間はなんと言えばいいのかというと、実は相応しい日本語が存在しなかったりします。しかし、それでは都合が悪いということで本来目上の人間が使う「お疲れ様」が時代が下がるにつれ目下の人間も使うようになったという経緯。
言葉は生き物ですからその事自体は全然構わないと思うのですが、だからと言って上記の新聞記事のように一方的に「お前の言葉づかいは間違っている」などというのはおかしいと思うのです。本来両方とも間違っているのに「俺の間違いはいいけれどお前の間違いは許さん」と言っているわけですから。言葉の変化を認めないのなら双方使うべきでは無いですし、逆に変化を肯定するなら若者の言葉づかいに目くじらを立てることもありません。しかし、自分の都合で片方だけ認めるというのでは道理が通らないと思うのです。
似たようなものに「活字」の使い方もあります。マスコミなどが若者の活字離れを喧伝するのをたまに目にしますが、インターネットのおかげでむしろ若年層の方が文字を読む量というのは多いと思われます。それなのに若者の活字離れ云々というのは、要するにテキストサイトに表示される文字列を活字とは認めていないからこその発言だと思われますが、それを言ったらそもそも活字とは活字印刷された文字を指すわけで。図書館か古本屋にでも行かない限り現代人が活字に触れることなんてほぼありません。自分たちの都合のいいように勝手に線引きをしておきながらそれを根拠に他人を批判するなど図々しいにも程があります。
言葉の変化を認めるのも、昔ながらの日本語を尊重するのもそれぞれに理由があってその主張には正当性があると思いますが、この新聞記事やマスコミ達のように自分たちの主張の為に日本語を弄ぶのはやめてもらいたいところ。若者批判という結論ありきで理由を創作しているようにしか思えません。
余談ではありますが「エロゲは文学」云々にも同じことが言えると思います。エロゲが文学になりえるかと問われれば私はYESと答えますが、それは小説などが文学と認知されている現状を鑑みてです。「小さい説」という言葉が示すとおり本来小説とは低俗な作り話の総称であり、とても文学などと呼ばれる代物ではありませんでした。それが時代が下るにつれ地位が向上し、現代では文学小説などという言葉まで生まれています。低俗なはずの小説が文学呼ばわりされているんだからエロゲが文学と呼ばれても何の違和感もないというのが私の意見です。
逆に「エロゲは文学だなどと達の悪い冗談だ」という主張も十分理解出来ますが、では文学作品とはどういうものだという問いに対し芥川賞受賞作品を上げる人間にはエロゲを馬鹿にする資格はないと思います。これもまた目糞鼻糞というものではないかと。
まあ、何事にもあまり目くじら立てず大らかな心で接した方が人生楽しく過ごせるのではなかろうかと思う次第。